WIND MESSAGE

by NGO

OLD WIND MESSAGE 3

1993.5.31

NGOがT邦吹奏楽部時代に書いたものを再掲載します

 今回もコンクールについて

 WM.2では、現在のコンクールの形と、それに対する私の考えを書いた。

・現在のコンクールで真の「音楽」を求めるのは困難であること。
・その中で、他のほとんどの団体と同じようにコンクールに臨むのは、大変危険であること。
・東邦高等学校吹奏楽部は、他と違うアプローチをしてきた、ということ。
 以上3点であった。

 3番目の「他と違うアプローチ」について少々説明が必要だろう。今回はその事について書こうと思う。
 もう一度確認したいことは「吹奏楽を、コンクールというとても狭い世界に閉じこもっている事から解放し、真の音楽としてもっと広い世界に押し上げる」事の意味である。
 吹奏楽には吹奏楽独自の世界がある。それはその通りだ。しかし「音楽」という事から考えると、吹奏楽の世界なんか、とてもちっぽけなものに過ぎない。にもかかわらず、吹奏楽をやっている人たち(主にスクールバンドの指導者、団員たち)は、吹奏楽の世界が、音楽のすべてであるかのように考え、もっと他の音楽に目を向けることが無い。或いは、その事を知っているが、コンクールになるとなぜか忘れてしまう(割り切ってしまう)事が多い。
 吹奏楽以外の音楽関係者にとって、吹奏楽に触れる機会は、コンクールが一番多い。例えば、すべての審査員が吹奏楽を良く知っているとは限らない。しかしその審査員もやっぱり音楽の専門家ではある。その専門家たちが吹奏楽に触れるのは、コンクールの審査員を通してである。また、普通の音楽愛好家が吹奏楽の価値判断をする材料は、大概コンクールの賞である。この賞は基準が曖昧(純粋に音楽として評価するのではなく、もっと別の要素が多分に含まれてくる)なのに、絶対的な評価として君臨しているので、内容がどうであれ、金賞を取った演奏が良い演奏で、銅賞は悪い演奏と単純に決めつけられてしまう。(コンクールの審査の問題は、また別の機会に詳しく書く。)
 その吹奏楽を良く知ってもらう大切なチャンスのはずのコンクールで、賞を取り、代表になることだけを考えた演奏を立て続けに聴かされたら、あまりにも虚しくなって吹奏楽なんか嫌いになってしまう。それではいつまで経っても吹奏楽が音楽として認められることにならない。どんどん吹奏楽は、吹奏楽の殻に閉じこもり、音楽の世界から見放されていってしまう。
 悲しいけれど、それが現実なのだ。

 しかし、本来吹奏楽は、そんな小さなものではない。無限の可能性と、強烈な表現力と、広く受け入れられる普遍性を備えたもののはずだ。管弦楽の二番煎じでもない。コンクールで、賞だの、代表だのといった偏った世間知らずの世界ではなく、音楽の一表現形態としての立派な吹奏楽の世界がある。
 その世界を、少しでも早く、少しでも多くの人たちに解ってもらうよう努力することが、今の私の仕事だと思っている。それが「吹奏楽を、コンクールというとても狭い世界に閉じこもっている事から解放し、真の音楽としてもっと広い世界に押し上げる」ことにつながっていくのだ。

 上記のことを踏まえ、いままで私(東邦高等学校吹奏楽部)が、具体的にどのようにコンクールにアプローチしてきたか、振り返ってみる。
 一番大切なこと。賞を取りに行くのではない。東邦高等学校吹奏楽部の音楽を聴いてもらう場である。東邦高等学校吹奏楽部の音楽とは新しい可能性に満ちた真の音楽としての吹奏楽である。

 自分に納得いくものができたら必ず(聴衆にも審査員にも)認めてもらえる。そして次の大会に進む。また吹奏楽の新しい可能性を認めてもらえるかも知れないチャンスが増える。今度は聴いて下さる人の範囲も広がる。そのように、どんどんチャンスを広げたい。全国大会になったら、それこそ日本中の人が、東邦の音楽を耳にする。CDにもなったりする。新しい吹奏楽の可能性に気づいてくれる人が増える。だからこそ私は全国大会までいきたいと思っている。願わくば、全世界の人に聴いてもらいたい。全世界の人に聴かせ得る演奏をしたい。
 ◆前に書いたことと矛盾するかも知れないが、コンクールの賞については、発表される前にだいたい自分で解る。他と比べて賞を予想するのではない。自分自身どれだけ納得いく演奏ができたかという事と与えられた賞と大体一致する。

 賞を取りに行くのではなく、新しい可能性を聴いてもらうのだから、音楽を妥協で固めるような事はしない。ごまかしはしない。表面を取り繕って、偽りだらけの音楽に誰が感動するか!
 ◆楽譜に書いてあることの意味を忠実に再現したいといつも思っている。必要だから書いてある音を、吹けないからといってカットしたり、ごまかしたりしたくない。それより吹けないまま正直に演奏した方がよっぽどましだと思う。

 表面ではなく内面である。それを表現するには、確実な技術が必要。本物の音が必要。それは日々の努力でしか得ることはできない。もちろん部員一人ひとりの意識の問題。
 ◆可能性の追求には個人の技量(楽器の技術、音楽的センス、意識を含めて)の向上は不可欠。私一人で音楽を創るのではない。みんなの意志の総合であるべきだ。

 新しい可能性を追求するのに、みんなが良く知っている曲を選ぶより、未知のレパートリーを開拓する方がやりやすい。また、自分の知っている範囲だけでの選曲は、あまりにも怠慢だ。
 基本的に吹奏楽のオリジナル作品を選ぶ。編曲物は慎重に。しかし編曲物に吹奏楽の可能性を感じたらこだわらない。但し、必ず(少なくともコンクールは)私自身がアレンジする。(私は曲書きだ。自分で言うのも何だが私のアレンジは自信がある。)
 ◆ヒンデミットのシンフォニーは良い例だ。初めて東邦が演奏したときはほとんどの人がこの曲の存在を知らなかった。が、今はポツポツと演奏しているのを聴く。名電がやったフサのプラハもその良い例だ。一連のオネゲルの私のアレンジは確かに難しいが、かなりの水準に達していると自負している。(残念ながらパシフィック231は著作権の関係で今後演奏できないが)プロコフィエフのシンデレラも従来に無い吹奏楽のサウンドになっている。時にイントロダクションは良い音がする。