WIND MESSAGE

by NGO

OLD WIND MESSAGE 7

1995.3.26 (未完成・未公開)

NGOがT邦吹奏楽部時代に書いたものを再掲載します

 3月29日のジョイントコンサートまで後わずか何日かを残すのみとなった。

 日誌を読むと、みんな一生懸命やろうとしているんだなぁ、感じることも無くも無い。しかし実際はどうなんだろう。「一生懸命」ってどのくらいやると一生懸命やったことになるのか?「死ぬ気で頑張る」って、口で言うのは簡単だけど、「死ぬ気」ってどんな気か、死んだ事の無い私には本当のところは分からない。
 何となく分かる事は、自分の想像をはるかに超えた事なんだろうな、という程度である。

 「火事場の馬鹿力」という言葉がある。絶体絶命の窮地に立たされた時に、普段では到底できっこない事やってしまうときに使う言葉だ。その時だけ特別の力を与えられて、凄いことをやってしまう、という意味に考えがちだが、実は少しニュアンスが違う。
 人間は(人間に限らず何でもそうだと思うが)、自分の持てる能力以上の事はどう頑張ってもできない。だから「火事場」で凄いことをしてしまうのは能力以上の事をやっているのではなく自分の能力を100%活用しただけなのだ。元々持っている力が、ストレートに出たに過ぎない。火事場の「馬鹿力」は特別な力ではなく、本来の力のはずである。
 という事は、人間はいつも自分の力を100%出していない事になる。そんな事になるのはせいぜい一生に一度か二度で、全然そんな経験をしないまま一生を全うする人の方がはるかに多いのではないか。
 いつもはどのくらいの力が出せているのかというと、私の全くの主観だか、20〜30%が普通で、50%も出せていたらかなりの物ではないかと思う。少し怠けるととたんに5%ぐらいまで落ち込むような気がする。
 怠けて5%。普通で30%。かなり感覚的な数字だがあながち間違いではないと思う。

 君達の一生懸命というのは、私から見て30%ぐらいだと思う。客観的に見ると「ごく普通」のレベルだ。決して怠けている訳でもないが、100%エネルギーを出すにはほど遠い。
 普段怠けているとそれを普通に戻すだけでかなりのエネルギーがいる。5%から30%だったら6倍だ。今までの6倍やる事になるのだからそれだけでかなり一生懸命やった気になるだろうし、充実感もあるだろう。そこで満足しようと思えば満足することもできる。なんと言っても今までの6倍もやったのだから。「私は一生懸命やりました。」「もうこれ以上できません。」といいたくなるだろう。
 しかし、現実は本来の力の1/3も出ていない。普通の事を普通にやっているに過ぎない。その程度の事を「一生懸命」とか「必死」という言葉で考えて欲しくない。考えが甘いと思われて当然だ。
 必死というのは、100%ではないにしてもそれに限りなく近く本来の自分の力を出し尽くすことのはず。「昨日言われて出来た事が今日は出来ない」なんて事が有る限り必死ではない。
 もちろん常に100%の力を出し続けたら人間すぐにまいってしまう。気力があっても体力が続かない。

 キラキラ輝く事は、とても難しい事だ。100%いや120%本気にならないと輝かないからだ。しかも人に言われてでなく、自分の内側からでなくてはならない。そして本気になる事が現在の高校生世代にとって未知の世界(どちらかというと、一生懸命本気になる事は、ダサイ事だと思われている。本当は一生懸命やってみたいのだろうけれどもそうするとみんなから冷やかされるので出来ない。)であるために、素直に一生懸命やることを知らない。そんな中で君達は自分の力を出し尽くそうとし 
 練習の時に言ったように、まず初めに一生懸命やっている君達を見たい。次にその練習で出てくる物が少しでも完璧に近い物であって欲しい。

 (註 原文ここまで。途中で切れた文章も原文のまま)